2010年10月30日 連載5

働く場所をひねり出す男
木造住宅から農園まで

細々と治山工事をしていた中島(なかしま)工務店がなぜ今、千人もの人が働く場を提供できるようになったのか?
 旧加子母村(現中津川市加子母)にずっと本社を置き、東京や名古屋、神戸などに次々、支店を出し成長してきた会社の足跡をたどると、そんな疑問がわいてくる。
 2010年6月期の年間売上高は64億円。従業員は220人。農園を運営するファンファーミングなどのグループ会社も含めると従業員は330人にのぼる。工務店の木造産直住宅の建築現場で働く職人など下請けの関係者をも含めれば、締めて千人ほどの働く場を提供している。うち約3分の1が加子母の住民だ。
 「何も大もうけしようとか、思ったわけではない。過疎化の進む山村で、もっと働く場をつくり出せないか、と考えてきただけです」
 そう話す社長さん(65)は、過疎化高齢化に悩む全国の山村に示せる「加子母モデル」を模索中だ。
 父親が土建業の中島工務店を設立したのは、1956年。5人兄弟の長男として生まれた紀于さんは、小学生のころから、治山工事の現場で働いた。岐阜工業高校の土木科を卒業後は、父親と一緒に中島工務店を経営した。23歳のとき、父親が心筋梗塞(こうそく)のため、49歳で急死。以後、会社の仕事の幅を広げてきた。
 土木工事に必要な生コン工場やブロック工場が加子母にはない。研究を重ねて、68年に生コン工場を、79年にはブロック工場を建てる。80年、当時の村長から、村の材木を使った産地直送住宅造りを依頼され、その分野に乗り出す。村内の工場で材木を加工し、村の職人が建築現場に出かけて組み立てる方式を確立する。寺社建築部門も設ける。
 生鮮食品などを販売する「ショッピングプラザアトラ」、地域の物産の販売をする「かしも産直市」やブルーベリーなどの農園を経営する「ファンファーミング」なども相次いで興す。
 気がつけば、加子母最大の複合企業に成長していた。「大企業の工場を誘致しても、不況になれば撤退する。加子母の人が持続的に働ける場をいかに確保するか、を物差しにしてきました」
 中島工務店の定年は65歳。希望すれば、その後もパートで働ける。雇用確保のため、一時、2千万円ほどだった社長の年収も840万円に下げた。本社の建物には工事現場で使うプレハブの2階建てをあて、出費を抑えている。
 熱意が向かうのは雇用だけではない。都会の人を招いて加子母の山に登る「かしも山歩倶楽部(さんぽくらぶ)」や、東京芸大卒の演奏者らによるクラシックコンサート「田中千香士音楽祭」などを仕掛けて地域の活性化を図る。阪神大震災のとき、岐阜県内の工務店に呼びかけて、住宅再建ボランティアに出かけたのもこの人だ。

30歳のときに旅したブラジルの大地が忘れられず、70歳になったら向こうで農業をする夢も捨てきれずにいる。

 

特別編集委員 足立 則夫(62)